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赤城神社 氏子町内記

◎ 赤城神社 氏子町内記 から引用
http://www.akagijinja.or.jp/shrine/parishioner.html

改代町
自一番地至四十七番地、世帯数三百五十四、人口千五百三十人
本町も沼地を埋築したもので、初め徳川氏開府の後、雉子橋内外の民家を、牛込徒町に移し、後改て代地をここに与えたため、改代町と呼ぶ。昔は改の字を「替」に作ったといわれている。はじめ、町内に田中寺、傳久寺、長寿寺、妙福寺の四箇寺院があったので俗に四軒寺町と呼ばれていたが、今では田中寺、伝久寺のみとなって、「二軒寺町」と呼ばれている。町会として明治卅三年十二月設立の親睦同盟会があり(事務所は卅五番地大澤方)に置く。

 

 

牛込改代町とその周辺 / 伏見弘著

◎ 日本全国書誌 JAPANESE NATIONAL BIBLIOGRAPHY 図書の部に紹介

http://www.ndl.go.jp/jp/publication/jnbwl/jnb_b200419m.html

牛込改代町とその周辺 / 伏見弘著. -- 東京 : 伏見弘, 2004.2. -- 497,13p ; 22cm
NDC(9): 213.61
東京都新宿区 -- 歴史 ; 江戸
JP: 20575838

 


◎ 「牛込改代町とその周辺」に関するホームページの紹介記事

 

「神楽坂の郷土史研究家伏見弘という生き方――神楽坂学が船出できるか①」

http://blog.livedoor.jp/m-00_33187/archives/4204676.html

(以下に一部を引用)

伏見さんは、戦後本郷で古書店を経営していたが、改代町の自宅を息子さんに譲られて、いまは65歳以上の人たちしか入れない練馬の老人マンションで奥様と二人で暮らしている。
改代町は、かつて矢来町に住んでいた鏑木清方が「続こしかたの記」で書いたように、江戸時代から古着屋が軒をならべて街並みを作っている町であった。「衣紋竹に吊るした衣類の九分通りは和服なので、袖や裾のシットリと垂れ下がったのが、音も立てないこの町の、一つの風情として好もしかった」と清方も回想している。
伏見さんはその町に興味を抱いた。そして古書店で培った資料収集の技を駆使して、文献をあたり、現地を訪ねて、調べぬいた。
やがてその研究成果は「改代町とその周辺」として、平成元年友人知人に送られた。
以後9年間13冊を完成させたが、あまりにも記述範囲が広がったため、この度「小日向小石川牛込北辺絵図」の範囲に限定をして、再編集の上一冊本として本書を上梓したそうだ。

新宿区の地名の由来

◎  新宿区の地名の由来(リンクフリー、引用自由)から引用

http://www.geocities.jp/pccwm336/sub12.html

【改代町】(かいだいちょう)                 -新住居表示未実施
 牛込村の白鳥沼の西端部。江戸築城で雉子橋付近の住民が牛込御徒町に代地を与えられたが、承応三年(1654)に改めて沼地(現在地)を給された。しかし埋め立てる資力がなく村人の妻子がゴミを捨てて埋まるのを気長に待ってだんだん町屋にしていったんだと。だから初めは「牛込築地替代町」といった。二度目の代地の意。。明治5年牛込四軒寺町(田中寺・伝久寺・長寿寺・妙福寺)を併合して牛込改代町となり、平成元年一部を水道町に譲
りて今日に至ってる。読み方は様々だ。一体全体どうなってるんだ。まず『角川日本地名大辞典』は「かいたいまち」、『新宿区町名誌』は「かいだいちょう」、ゼンリンの『住宅地図』は「かいたいちょう」。パソコンでは「かいたい」だと表示されるが、「かいだい」には「改代」の熟語は入っていない。しかし代地なんだから「かいだい」が正しかろう。「かいたい」は「改替」の読み違いじゃないの? あんたはどれが好きかね?

改代の由来
 代地をさらに改める意。代地の立ち退きを命じられて二度目に与えられた代地のこと。

(高橋 注) 私も子どものころから、どれが正しいのかわかりませんでした。「かいたいまち」「かいたいちょう」「かいだいまち」「かいだいちょう」の4通りを使っています。どれが好きというわけではなく、その場の気分で。

なお、こちらのページに次の記述があります。

http://www.asahi-net.or.jp/~jt7t-enmt/index1/name.html


「マチ」か「チョウ」か?「迷ったことはありませんか。」意外と難しい由来があります。
 今でも「まち」と呼ばれる地名の多くは、江戸時代に「御」が付き幕臣の屋敷でした。
 町人地の「ちょう」と区別するため、「まち」と読まれます。

町名の謎

町名の謎

http://www.mptokyo.net/sn/choumei/cho_backnumber04.htm


改代町(かいだいちょう) 慶長年間に、神田雉子橋の住民を牛込御徒町(町名の謎その2「南町、中町、北町」を参照)に移し、後にこの地に改めて代地を与え移したことからこの名がついた。

(高橋 注) この説明が一番簡潔でわかりやすいので、そのまま引用しました。

堀部安兵衛腰掛けの松

安兵衛腰掛けの松

落語「高田の馬場」の舞台を歩く
http://ginjo.fc2web.com/53takatanobaba/takatanobaba.htm

(一部を引用します)

 決闘の当日、叔母から知らせを受けた安兵衛は八丁堀(中央区)から鍛冶橋、竹橋、飯田橋、改代町(新宿区)、馬場下、高田馬場と10km以上走りに走った。途中改代町16番地の松の根方で一休みしたので、その松を”安兵衛腰掛けの松”とよばれた。

牛込改代町の惨状

牛込改代町の惨状

新宿の関東大震災。 [気になるエトセトラ]
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-08-24-1

(一部を引用しますが、写真は転載していません。)

■写真中:上左は、牛込改代町の惨状。倒壊はしているが火災は起きていない。

明治時代の大出水の絵葉書